時代は明治へと移りました。新しい政府下になると、肥後藩は投獄していた勤王志士たちを藩の役人にとりたてるため出獄させます。彦斎もまたこの時出獄し、外交官へと登用されました。

描いていた理想とは違っていた現実

尊王攘夷の思想とともに彦斎が過去一緒に奔走してきた同志たちが名を連ねる新政府でしたが、この時すでに攘夷の思想は新政府には無く、着々と開国の準備が進められていました。彦斎はこれを聞き愕然とし、かつて行動をともにした桂小五郎や三条実美らと面会し議論するも新政府の方針は変わりません。勝海舟ら旧幕臣と連携しようと奮起しますがこれも実現することはありませんでした。

兵学校を設立・教育者として尽力するも2年で解体

藩命により鶴崎(現在の大分県)に赴いた彦斎は、有終館という兵学校を設立し兵士の教育に勤めました。有終館では海兵200人、陸兵100人が学んでいたとされています。自身が新設した学校で自らも教鞭をとりまさに新境地で活動しようとしていました。

かつての同志によってもたらされた有終館の解体

教育者として新たなスタートをきった彦斎のもとを長州藩士・大楽源太郎が訪ねてきたことで人生は大きく狂い始めます。大楽は暗殺の首謀者として追われる身でありながら明治政府の転覆を狙い新たなクーデターを画策するため彦斎に助けを求めにやってきました。有終館の兵をかしてほしいと頼みこみますが藩の兵を動かすことはできないと彦斎はこれを拒否、しかし見捨てることができず大楽とその仲間を匿いました。これが藩の知るところとなり彦斎は逮捕、学校もわずか2年で解体されることになりました。

最後まで信念を曲げずに逝った河上彦斎

逮捕された後、大楽を匿ったことで彦斎には様々な反政府事件の嫌疑がかけられました。裁判の判事をつとめたかつての同志が説得を試みましたがこれを真っ向から拒否し、最後まで尊王攘夷の思想を曲げなかったとされています。明治4年12月、彦斎は38歳で斬首。疑われた事件への関与はいずれも低く、明治政府より危険分子とみなされ疎まれたための斬首と言われています。

彦斎のように、時勢によって思想や志を変えていくことを拒否した志士たちが幕末には数多くいました。彼らの志の強さは先に命を落として逝った同志たちの想いに支えられていたのかもしれません。

“君がため 死ぬる骸に 草むさば 赤き心の 花や咲くらん” 河上彦斎 辞世の句

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まちづくりGIFT

「地域ビジネスで、世界を変える」を使命に、全国で人財育成を通して、地域ビジネス創出事業を展開。ガイアの夜明け、NHK特集、日経新聞他メディア掲載多数。プロジェクトの詳細、講演、ワークショップなどのお問い合わせは、Webサイトからご連絡ください。